過去から未来を紡ぐ
街道が、今つながる。
新潟・福島をつなぐ
〝新しい〟観光ルートが
開通します。
  • 所要時間
    78
    分短縮
  • 最高標高
    650
    メートル
  • 全長
    58
    キロメートル

「八十里越峠」とは

「八十里越」の由来は諸説ありますが、「壬寅随筆」や「嵐渓史」には、困難な山道なので、一里を十里にあてて八十里越と呼んだとあります。越後山脈と帝釈山脈の急峻な峰々に囲まれた南会津地域にとって、「八十里越峠」は越後に通じる重要な道路であり、文献によると、戦国時代に越後・岩代両国間の交流が確認されています。この八十里越峠を利用して、南会津地域では、食塩・魚類・鉄製品などの生活用品を越後から移入し、また、ここから繊維原料、林産物、労働力などを越後へ送り出していました。このように、中越地方と南会津地方は深い依存関係で結ばれ、明治末期まで経済的・人的交流が続いた幻の峠道です。
所要時間78分短縮…高速を使用した時の三条市から只見町までの所要時間と比較した場合の短縮時間
全長58キロメートル…三条市から只見町までの距離

街道の歴史

日本の近代化を図りつつも時代に飲みこまれた武士であったことから、ラストサムライとも呼ばれる河井継之助(かわいつぐのすけ)。いまでも「河井新道」の名を残す継之助は、1827年、7万4千石の長岡藩士として生まれました。慶応元年(1865年)、郡奉行に登用されると次々と改革を実行し大いに実を結びました。しかし、明治維新が起こり、継之助は武装中立の姿勢を貫こうとしますが、慶応4年(1868年)5月、小千谷談判が決裂して、長岡藩は新政府軍と戦うことになります。一度は落城した長岡城を取り返す快挙を果たしますが、あえなく会津へと敗走します。新潟県と福島県の県境、険しい山道「八十里越峠」を越し只見に辿り着きます。受けた傷は深く、只見町にて死去しました。享年42歳でした。

雄大な山岳と麓の景観

八十里越峠を取り巻くのは"雄大な山岳"です。ハヤブサの繁殖地として知られる八木ヶ鼻(やぎがはな)や下田郷県立自然公園、只見ユネスコパークをはじめとする「癒しの森」や「恵みの森」、国の天然記念物である湿地植物に出会える駒止湿原(こまどしつげん)や宮床湿原、三ツ岩湿原、田代山湿原など、ひめさゆりの群生地である高清水自然公園。秘境だからこそ、人の手の入らない環境がいまに残されています。

この山岳環境の麓には、縄文の時代から人が暮らしてきた生活と溶け合う景観が広がっています。自然の恵みを受けて生きる日本の原風景がそこにあります。

里山文化

国の重要無形民俗文化財になっている「会津田島祇󠄀園祭」では、日本一ともいわれる花嫁行列を見ることができます。「雨生(まおい)の大蛇祭」として知られる「しただふるさと祭り」では、老若男女が大蛇の神輿を担いで練り歩きます。また、叶津番所では江戸時代後期の武家屋敷を体験することができます。ほかにも八十里越峠を越えて行き交う人々が伝えた文化やその歴史が、各地の里山にはいまも色濃く残っています。

開通への進捗

八十里越街道の国道全面開通と、新しい観光エリアの誕生に期待を込めて、工事のこれまでのあゆみと進捗を紹介します。大きな前進がありましたら今後も新しい記事をアップしていきますのでご期待ください。
国道289号 幻の街道「八十里越街道」が時を越えて再び繋がる 2022.01.18

特集記事

こちらは国道開通による効果として期待される地域間連携の視点により、各地の魅力的な資源を紹介していきます。「いいね!」と思ったら、記事にある「ハート機能」を押して、ぜひお気に入りを教えて下さい。