過酷な“酷道”から賑わいの“街道”へ ~再生する「国道289号八十里越」~ 前編

2023.01.06

「今後5か年程度で全線開通の見通し」ーー2021年4月27日、国土交通省は「国道289号八十里越」の開通時期の見通しについて、初めてこのように時期をかなり絞った形で明言しました。このニュースは、地域に住む方々にとってだけでなく、実は全国の道路ファンにとっても大きな驚きをもって迎えられています。

いま「八十里越街道」として生まれ変わろうとする本エリアの特集記事として、今回はその最も重要なトピックである国道289号、いわゆる「八十里越」の道路そのものに焦点を当て、その特徴や魅力をディープに、マニアックに、前後編で掘り下げます。前編では遠い昔にさかのぼり、地域の暮らしとともに改良・再生の道を歩んできた歴史を、そして後編では、現在進行形で開通工事の進む現場取材から見出した未来を、道路マニアの目線からお送りする、今もっともディープな「八十里越」の特集記事をご堪能ください!

▲只見町叶津にある国道252号と国道289号の分岐地点(上)と、そこにある案内標識(下)。左折が八十里越を経て新潟県三条市へ通じる国道289号だが、いまはまだ行先表示は「新潟方面通行不能」となっている。だがここに「三条」の2文字が躍る日は遠くない!

▲晩秋の夕暮れに分岐地点より見る国道289号八十里越の進行方向。やがてこの夕日を追いかけて日本海まで走り抜けられる日が来る。

  • 「酷道」という道路の“絶滅危惧種”である現在の八十里越

私は道路研究家の平沼義之と申します。道路が大好きな道路ファンとして、全国の道路を旅して、その歴史や構造物の魅力を自身のサイト「山さ行がねが」や、書籍などで紹介しています。

私が生まれる前からずっと工事が進められてきた国道289号八十里越の開通を、とても楽しみにしています。その割に、いままで八十里越を訪れたことはなく、毎年更新される道路地図帳や新聞などのニュースだけでこの事業の進捗を調べていたのですが、冒頭のニュースは本当に衝撃でした。ついに、ついに! ついに!! あの八十里越の国道が開通するのか!!! と。その興奮に身を任せつつ、八十里越の道路の魅力をアピールするために、本記事を執筆しています。読めばまもなく生まれてくるこの道のことが、より愛おしくなるはずです。

さて本題の前に、道路ファンについて説明します。道路ファンとは文字通り道路が好きな人たちのこと、道路そのものが旅の目的地になる人たちのことです。鉄道ファンにも撮り鉄、乗り鉄と様々なジャンルがあるように、道路ファンも国道好き、高速道路好き、狭い道好き、橋好き、トンネル好き……さまざまです。その中でも高い人気を誇るジャンルが、「酷道(こくどう)」です。

酷道とは、国道であるにも関わらず、「国道なんだから整備の行届いた道だろう」という一般的にイメージされる姿と反した状態の道をいいます。たとえば、車が行き違いできないほど狭い区間が延々と続いていたり、舗装がされていない砂利道だったり、そもそも自動車が通れるような道が存在しない区間だったりと、地図上では赤く目立つように描かれることの多い国道なのに簡単には通りぬけることが出来ない! そんなギャップがウケて道路ファンの中でも酷道に惹かれる人はとても多く、最近ではテレビなどでもしばしば採り上げられていますので、ご存知の方も多いことでしょう。

▲おそらく日本一有名な「酷道」である青森県の「階段国道」。横に立つ「おにぎり」形の標識が、この奥の階段が国道であることを物語っている。全国から多くのファンが訪れる酷道ファンの聖地のひとつ。

▲地図の出典:国土地理院(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)

そして、国道289号の一部となっている現在の八十里越ですが、ここは全国屈指のハードな酷道です。ここには19.1kmというもの凄い長さの「自動車交通不能区間」があります。道路法施行規則によれば、未改良道路(供用を開始している)のうち幅員、曲線半径、勾配その他道路状況により、最大積載量4トンの貨物自動車が通行することができない区間を「自動車交通不能区間」としており、噛み砕いて言えば自動車が通れないほど貧弱な整備状況で供用されている道路ということになります。全国に約56000キロ(地球1.4周分)、計459本ある国道のうち、八十里越にある19.1kmの自動車交通不能区間は、全国2番目の長さを誇ります(最長は国道291号の清水峠で29.2km)。あまり誇らしい数字ではないのかもしれませんが、道路ファンの中にはこれを愛好する人が大勢います。

とはいえ、国道は国土整備の根幹を成す重要な存在ですから、道路整備の進展により毎年少しずつ減少しています。今後増えるということもまずないでしょうから、道路界の絶滅危惧種ともいえます。例えば2023年にも国道417号に残る約7.6kmの自動車交通不能区間が冠山峠道路の開通によって解消される見込みです。そんな中、いよいよ八十里越が“酷道”を返上する日が近づいてきました。

  • 世紀越えの道路工事、その完成が、いよいよ近づいてきた

▲国道289号八十里越の平面図と縦断図。(「国道289号八十里越だより No.34」より)。令和4年12月時点で、大半の構造物(橋やトンネル)の完成度は、9割~10割に達していることが分かる。

「国道289号八十里越」は、八十里越の交通不能区間解消と道路改良を目的に、国土交通省と新潟県と福島県が共同で、昭和61年度から行っている国道289号の一次改築事業です。完成すれば自動車交通不能区間は解消され、三条市と只見町の間の所要時間は、これまでより78分(※)も短縮されます。しかし事業化から35年以上も工事が続けられており、これは一つの山岳道路の建設事業としては類を見ない長期間にわたっています。(※高速を使用した時の三条市から只見町までの所要時間と比較した場合の短縮時間)

しかもこの長い期間の間に新たに供用を開始(開通)したのは、福島県が工事を担当した区間のごく一部である1kmほどだけでしたので、私が毎年道路地図帳を見較べても進展が見えず、これは本当に完成するのだろうか……と部外者ながら少々心配に思った時期もありました。(でも実際は、一般車通行止のゲートの向こう側で、着実に工事が進められていたわけですね!)

建設が進められている新たな道路の全長は20.8kmあり、特に工事の難度が高い県境区間11.8kmを国土交通省北陸地方整備局が担当しています。冒頭紹介したとおり、この区間の開通時期見通しが示されたことで、足並みを揃えて完成に近づいている福島県施行区間(7.8km)および新潟県施行区間(1.2km)と合わせた全線の開通が期待されています。既に述べたとおり、事業が始まってから長い時間が経過していますが、事業化に至るまでにもさまざまな紆余曲折を経ています。今回はそんな八十里越の下積み時代に焦点を当ててみたいと思います。ここを知ることで、きっともっと道が好きになりますよ。

  • 八十里越の長い長い改良の道程

八十里越は、上の図のように長い歴史を有する道です。近世以前から越後と会津を結ぶ街道の一つとして重視され、地域の人々の献身的な努力によって、8里の山道が10倍の80里にも感じられるといわれた険しい越後山脈越えの峠道が維持されてきました。

道路の歴史は、改良の歴史です。その歩みを止めた道は時代に取り残され、次の時代に登場するもっと便利な道に役割と利用者を奪われて、やがては廃れてしまう非情な運命が待ち受けています。八十里越の場合もそうでした。

八十里越では、江戸時代後期の天保14(1843)年に大掛りな改良工事「天保の大改修」が行われ、これにより歩行者だけでなく荷を付けた牛馬も通れるようになりました。これが詳細な記録が残る最初の改良でした。

▲叶津番屋跡(旧長谷部家住宅=県重要文化財)。只見町叶津の国道289号入口に面している。江戸時代には八十里越の口留番所として通行人や物資の監視をおこなっていた。

▲長野の庚申塔。三条市長野の県道鞍掛八木向線(八十里越)沿いにある、道標を兼ねた庚申塔。寛政10(1798)年建立。「右ハ会津八十里ミち 左ハ大谷丸倉ミち」。

明治時代になって関所や番所が廃止されるとともに、それまで制限されていた荷車や馬車のような車輪の付いた乗り物(車両)の利用が自由になりました。車両は牛馬よりも効率的な輸送手段ですが、利用にはそれに適合した規格の道(=車道)が必要です。車道の整備には、これまで以上に大規模な土木工事が必要で、多くの人手と資金を要します。それは個人では難しく、町村から郡や市、郡や市から県、そして国へ連携して行う公共事業が、道路整備の標準的な手法となっていきます。

明治時代の八十里越では、荷車や馬車が通り抜けられる車道の整備を目指した動きが活発でした。明治初期には、沿道の村々の利害関係をはらみながら様々なルートで新道が計画されています。その多くは日の目を見ずに終わりましたが、八十里越に車道を求める人々の熱意は衰えず、やがて総意が結集して一本の道へと結実します。新潟県側は明治23年、福島県側は明治27年に標準幅3.6mの堂々たる馬車道が完成し、これは近世以前の「古道」に対して「明治新道」と呼ばれる、吉ヶ平から叶津まで40kmを越える日本屈指の長大山岳馬車道でした。

▲明治新道にはおびただしい数の九十九折りがひしめいている。この写真には上下3段の道路が見える。こうした九十九折りは、峠道の勾配を緩和し、荷車や馬車の通行を実現するための工夫だが、おかげで古道よりもかなり長くなった。

▲鞍掛峠の頂上。八十里越はいくつもの峠を連続して越える長い長い山道だが、鞍掛峠(海抜951m)が最も高い。ここからは新潟港や佐渡島まで見渡せる。

新道の開通以降、八十里越はますます栄え、人や牛馬や荷車さらには自転車までもが連日のように行き交いました。明治30年代に八十里越は全盛期を迎え、長い峠道の各所には茶屋が建って旅人を助けました。しかし、大正時代に入ると、賑わいに陰りが見えるようになりました。

荷車や馬車とは一線を画した輸送力や速達力を持つ鉄道の出現は、命がけの峠越えという難行から人々を次第に遠ざけたのです。大正3年に会津地方と新潟を結ぶ磐越西線が開通すると八十里越の利用者は減少します。そこに大正15年の水害による峠道の荒廃が決定打となって、昭和初期には峠の茶屋も失われ、やがて地元の人々が炭焼きなどで細々と通うだけの山道になってしまいました。

昭和時代になると、新たな乗り物である自動車が全国的に普及しはじめ、戦後はこれがモータリゼーションという大きな時代の流れとなって、あらゆる道路は自動車の通行を前提に考えられるようになりました。しかし荷車よりも遙かに大きく重い自動車が安全に通行するためには、車道は、自動車道へと、さらに改良されねばなりません。

一度は荒廃し、眠りについた八十里越を、自動車道として再生し、この地方に再び大勢の人々が行き交う賑わいと繁栄を取り戻したい。隣り合っているのに遠くなってしまった峠の向こう側と、もう一度親しく交流したい。そんな地域の諦めない願いが、やがて県や国を動かして、八十里越の国道昇格、そして今日の「国道289号八十里越」事業へ繋がっていくのです!

  • 地域の悲願と、自動車の通る道としての再生

個人的に八十里越の長い歴史の中でも、廃れてしまった峠道が地域の熱意と知恵を結集して再生してくる、この時期の物語が最も好きです。なのでここからは少しだけ詳細度を増して述べたいと思います。これを書こうとしている私が、いまとても燃えています。

八十里越に自動車道を通そうとする計画は、戦後間もない昭和23年に、峠を挟んで向き合う福島県伊北村と新潟県森町村が「只見三条産業道路」の開設期成同盟会を結成したことに始まります。この最初の計画路線は、現在の只見町蒲生を起点に、蒲生川をさかのぼって県境を越え、現在の三条市大江(大谷ダム付近)へと至るもので、従来の八十里越の改良ではなく全く新たな道を整備する意欲的なものでした。

この計画は、昭和26年頃から大江の奥に広がる五十嵐川源流の広大な国有林を開発すべく林道整備を進めていた林野庁の計画と合体して、大江~丸倉~空堀~木ノ根峠~叶津を結ぶ「会越産業道路」計画となりました。そしてその一部となる塩野渕林道が、大江から丸倉を経て旧来の八十里越の道と合流する空堀のすぐ近くまで建設されたのです。ゆくゆくは県境方向へさらに延伸する計画だったはずですが、続きの工事が行われることはなく、この林道はいまも行き止まりのままです。

▲地図の出典:国土地理院(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)

この八十里越に代わって、初めて只見と新潟県を自動車道で結んだのは、田子倉と大白川(魚沼市)の間にある六十里越でした。八十里越と同様に険しい六十里越も長らく車両交通を阻んでいましたが、昭和20年代後半から30年代にかけて只見地域に空前の賑わいをもたらした田子倉ダムの建設(昭和35年完成)と関連し、六十里越を越える鉄道(只見線、昭和45年全通)と国道252号が急ピッチで建設されたのでした。着工から20年を超える難工事でしたが、国道252号六十里越は昭和48年に開通しました。

▲国道252号六十里越の道路風景。右奥に見えるトンネルは只見線の六十里越隧道。5月中旬でも路傍には雪が残る。雪崩に磨かれたアバランチシュートの大岩盤は当地方ならではの素晴らしい山岳景観だ。

▲地図の出典:国土地理院(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)

しかし、海抜900m近い高所を越える六十里越は開通後も冬季閉鎖を余儀なくされます。年中通行できる道路への渇望は、長い歴史を秘めて眠る八十里越に再び光を当て、これを国道として整備しようという国道昇格運動へと集約していきます。そんな地域の粘り強い運動が実を結ぶ形で、昭和45年4月1日、列島を横断して新潟市といわき市を結ぶ一般国道289号が指定され、そのルートの一部として、まだ自動車の通れる道がなかった八十里越や、甲子(かし)峠が組み込まれたのです。このときに塩野渕林道の大部分も国道になりました。

▲叶津の国道289号入口に立つ、八十路越地点開発促進期成同盟会が建てた看板。日本「海」と太平「洋」を結ぶ列島横断道路、その最後のピースが八十里越となる。

国道昇格からまだ間もない昭和48年、福島県は単独で八十里越の入口にあたる只見町叶津から国道289号の改築事業に取りかかりました。これが現在まで続く八十里越一次改築事業の本当の始まりであり、このときから数えると2023年で工事50周年となります。

しかし八十里越は改良すべき距離が約40kmと極めて長く、そのうえ地形が険しく、かつ豪雪のため工事を行える期間が年の半分程度に限られるなど、高度な技術力と長期間を要する大変な難工事が予想されたため、県の力だけで完成させることは困難であり、都道府県の事業の一部を国が代わりに行う権限代行による国直轄事業への採択を目指す活動も工事と同時進行で進められました。

▲国道289号が奥羽山脈を貫く甲子道路。国道昇格当時は自動車通行不能区間だったが、平成20年に全長4345mの甲子トンネルの完成によって開通し、会津と中通りの新たな交流が生まれている。

▲福島県整備区間で平成7年に供用された叶津スノーシェッドは、看板にもあるとおり、叶津川を乗り越えて襲来する雪崩への備えであり、斜面沿いではない平地に屋根付きの道路がある珍しい景色になっている。道路ファン必見!

そして昭和61年…… 国は権限代行による「一般国道289号八十里越」を事業化しました。これにより現在建設が進められているルートでの整備が決定し、悲願の全線開通への目途が初めて立ったのです。おめでとう八十里越! ついにやったな!! 同じ年には新潟県による事業もスタートし、ここに福島県・新潟県・建設省(国土交通省)の3者タッグ体制による「国道289号八十里越」事業が本格始動しました。

ーー以上が、「一般国道289号八十里越」の事業化に至るまでの遠大な経過の抜粋です。一つの道路が生まれるまでには、数え切れない多くの出来事の積み重ねがあり、その一部が歴史として後生へ語り継がれます。道は歴史を作りますが、道そのものも歴史ですね。私は、道への愛着の源泉を、この積み重ねという部分に最も強く感じています。

歴史が息づく八十里越の新たなる国道。その完成間近である最新の姿を、私は今回、特別に体験する機会を得ました。次回の「後編」では、八十里越の夢の新国道の工事の全貌とその進展を、ばっちりレポートしたいと思います!! 見逃すな!

  • 国道289号八十里越DATA

八十里越とは、新潟県三条市と福島県只見町結ぶ越後山脈越えの峠道で、八里の道のりが10倍の八十里に感じられたということからそう呼ばれるようになった。現在開通工事が進められている「国道289号八十里越」の全長は20.8kmで、国土交通省が11.8km、福島県が7.8km、新潟県が1.2kmの工事をそれぞれ担当。工事が完成すれば、車両の通行できなかった区間が解消されることで、地域へのアクセスが大きく向上すると見込まれている。

この記事を書いた人

平沼義之(ヨッキれん)
1977年まれ。秋田県在住。三度の飯と同じくらい道路が好き。世の中から忘れられてしまった廃道が大好物のオブローダー(廃道探検家)。全国の廃道をはじめとする一風変わった道を探索してサイト「山さ行がねが」で発表している。著書「日本の道路122万キロ大研究」(実業之日本社)ほか。廃道の楽しさを凝縮したトークイベントも随時開催。直近は2023年2月11日に開催予定(チケット発売中)。詳細はこちらから。

山さ行がねが:https://yamaiga.com/